あの日/3.11当日の記憶
周囲の皆さんが3.11当日の出来事を振り返り、詳細な日記を書いてるのを見て、僕は当日から日記やツイッターを書いてたから今更取り上げなくてもいいや、と思っていたのですが、時系列で思い返すとあまりにもいろいろな未記載なこと、忘れていた事を思い出したので、備忘録として書いてみる。
14:46
地震発生。
青葉区晩翠通りの辺りで社用車運転中のため、ブレーキとサイドブレーキをかけ、ハンドルが動かないようにがっちりと握って揺れが収まるのを待つ。
ある程度収まった頃には目に見えるもの全てが停電。信号も全て消えており、早くも軽く渋滞が始まっていた。
会社の上司に連絡をとりたいが携帯はつながらず、業務継続不可能と自主判断し、会社に戻る事にする。
15時半頃
なんとか晩翠通りから仙台駅前まで出てきた。
会社が卸町なので新寺~産業道路で帰社するつもりが、渋滞でのろのろ運転。信号停電だし当然か。
早くも帰宅指示の出た方々が、落下物のある歩道ではなく車道を縦横無尽に歩いている。
なんだろうこの光景。
ラジオで「10m~15mの津波が」と言っている。いや、なんぼなんでもそんなデカイの来ないでしょ。小数点打ち間違えたんじゃないの?
(最初の勘違い)
16時頃
4号線に出る手前のガソリンスタンドの天井が崩落し、向かいの洒落たレンガ造りのレストランは壁が全て崩れていた。
恐ろしい光景。
4号線に差し掛かる頃、突然の猛吹雪で視界がさえぎられる。どうなってるのこれ?
16時半頃
1時間半かけて会社着。
もう他の人は全て帰宅しており、嫌われ者の上司が1人残っていた。
いつも仕事でトンチンカンなことばかり言う嫌われ者で、支店長の娘婿と言う事で煙たがられていた。その上司が、
「嫁の車が津波で流されたらしい。空港の外れに勤めているんだが」
と言っていた。
いつも間違った指示ばかり出す上司なので、そんな事誰も真に受けず。
「仙台空港の滑走路って2500mあるんですよ。そんなに津波がくるわけないじゃないですか」
と返す。
(2回目の勘違い)
「それもそうだな。でもなぁ、流されたっていうんだよなぁ」
と小首をかしげる上司。
当然このとき、沿岸部の状況など知る由もなく、想像もしていなかったわけだが。
17時過ぎ
会社を出発。
週末割引でガソリンを給油する予定だったので、すでにエンプティランプが光りっぱなしのマイカー。
しかし給油できそうにない。家まで着けるのだろうか?
4号線に出られそうもないので、産業道路から蒲町~霞の目飛行場方面へ進路をとるが、どこを通っても渋滞なので諦める。
徐々に暗くなってくる。
19時過ぎ
霞の目飛行場の辺りからなんとか4号線に出る。人工の明かりは車のライトと、遠くに見えるSS30と森トラストビルの赤く点滅する電球のみ。
「あー、全戸停電か」
と思うが、あの揺れなので別に不思議な事とは思わなかった。
むしろ当然のことと冷静に判断する。
南北に走る4号線は混んでいたが、長町方面から286号線に抜けると意外なほど空いていた。車を飛ばして帰路を急ぐ。
考えてみれば、何時間も歩いて帰宅した人が多かったので、僕はまだマシなほうだったか。
20時半
帰宅。
当然真っ暗。絶対に潰れていると思った実家は無事で、とりあえず「生きてるかぁ?」と駆け込んだら、両親と姉がコタツに入って
「やぁ」
と普通に答えたので拍子抜け。
宮城県沖地震のときは、茶箪笥などが倒れてガラスまみれの茶の間になっていたので、大きな被害がないことに安堵する。
数年前に準備した、乾電池、ラジオ、ロウソクを実家に渡す。
21時
ツイッターに無事の報告。
帰宅に3時間半かかったので携帯の充電は十分。ここでようやく情報がある程度はいるようになる。
友人が通行止めで帰宅できず、小学校に避難しているとつぶやいていたので、原付で状況確認も兼ねて様子を見に行く。
途中開いている店を探すが、幸い近所のファミリーマートだけ開いていた。
しかし中はすでに食料も飲み物もスッカラカン。
それでも何かお茶と酒のつまみのようなものを購入し、避難所へ向かう。
22時過ぎ
メールがつながらないので、ダイレクトメッセージで連絡を取り友人と合流。
小学校で夜が明けるのを待つのも手だが、連れ帰る事で1人分のスペースが空くので家に連れて行くことに。
体育館はこの時点で足の踏み場もない状況だったからね。
友人が食べ物をもらったと言う方に、先ほど買ったお茶とおつまみを渡す。
23時頃
原付で2ケツ、ノーヘルのまま家に向かう。
この日ばかりは道交法など気にして入られないだろう。
途中何箇所か通行止めがあり通れず。警察官もいたが、さすがにそこでは原付を降りて引いていた。
この時間でもなぜか五橋から愛宕橋の辺りは渋滞だった。
23時40分頃
帰宅して、まずは情報を集めようと言う事でPSPでワンセグを見る。
火の海の気仙沼に言葉を失う。
友人と携帯などで情報を集めるが、入ってくる情報は信じがたい被害状況の話ばかり。
「荒浜で200~300人の遺体」
というニュースに津波被害の片鱗をようやく知る事になる。
「頼むからそれ以上増えないでくれ」
と願うが、実際にはこの段階で相当な被害が出ており、しかし未だに全容は把握できていなかった。
「早めに寝て、明日は早朝から行動しよう」
と僕は早めに(と言ってもすでに日はまたいでいたが)布団に入ったが、友人は遅くまでワンセグを見ながら情報を集めていたようだった。
だいたい思い出したのはこんな感じ。
日が経つとだんだん記憶が曖昧になると思われるので、あえて記録。
しかし、周囲の皆さんのあの日の行動ログを読ませていただいているが、僕の周りの人たちはみんな、困っている人に手を差し伸べ、声をかけて上げられる方たちだと言う事を改めて再認識。
あの状況下でそれが出来るってすごいと思うよ、ほんと。
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